2019/12/04 12:30
「屋久島の森/The Forest of Yakushima」
ペン画/Drawing date:2009.8.14 size:257 × 364mm(B4)
この作品は、2009年8月に描かれたものです。実はその年の4月、過去に登山家でもあった屋久島在住の友人に、ステージⅣの末期すい臓がんが発覚、余命1年との告知を受けました。友人が70歳で、僕が40歳の時のことです。
ならば1年を掛けて、残りの人生にじっくりと向き合おうという話になり、友人と奥さんは、食事療法などの実践を検討し始めました。友人は、「まあ、最後の最後に、お気に入りの家も建てられたし、やりたいことはやったから、あとは出来るだけ延命措置だねえ。」と言って笑っていました。僕はその時の会話を、まるで昨日の出来事のように覚えています。体調が良好ではないものの、その後の経過を顧みると、当時の友人が、いかに元気であったかが想起されます。
最初から、食事療法を実践したわけではありません。先ずは医者の勧めに従い、抗がん剤による治療に取り掛かりました。しかしながら、その後の症状は、ひたすら悪化の一途を辿ったと言えます。まるで急激に下り続けるしかない、ジェットコースターに乗ってしまったかのような有様でした。
野菜ジュースを作る為にジューサーを買い、無塩の醤油やエゴマの油を用意したものの、あっと言う間に経口摂取(食べ物を口から摂ること)が不可能になります。胃瘻(いろう=内視鏡を使用し造られた「お腹の小さな口」を指し、取り付けられた器具「胃ろうカテーテル」から胃に直接栄養を入れる)手術が行われ、お腹の穴から栄養剤を投与するものの、その度に友人は嘔吐を続けました。僕らが嘔吐物の処理に追われる中、今度は顔面やお腹などの皮膚に、ハッキリとした黄疸(おうだん=病気や疾患に伴い、皮膚や眼球が黄色く染まること)が表れます。すぐに再入院となり、検査をすると胃瘻が抜けていると発覚、医療ミスか事故かは不明ながら、同じことが繰り返され、更に2度の再手術が施されました。意識を失うなどして、慌てて救急車を呼んだケースもあり、友人は幾度となく病院へ緊急搬送されます。我が家をこよなく愛する友人の希望から、基本的に自宅療養の形をとっていたのですが、正直な話、家でゆっくりと過ごす時間など、なかなか持てなかったと言えるでしょう。
病気は容赦を見せず、日を追うごとに勢力を増してゆき、状況は転がるように悪化を続けました。友人は、入退院を繰り返すなかで、日に日に活力を失ってゆきます。急激な症状の進行により、患者本人も周囲の関係者も、一向に休ませて貰えません。僕は仕事に行きながらも、可能な限り友人宅で寝泊まりし、即席の知識を頼りに看病を続けましたが、病状悪化の速度に、心も体も全く付いて行けない状態でした。それは、当の友人の奥さんも同様で、僕ら自身も友人と共に、日に日に弱っていったと言えるでしょう。
ある夜のことです。緊急搬送された病室で、友人は息も絶え絶えに「俺は今夜、逝くのだろうか?」と、僕に聞くのでした。事実を述べるならば、いつ息を引き取ってもおかしくない状態であり、その質問を、明確に否定出来るものではありません。しかし僕は、「そんなの、まだだよ。明日、家に帰れるんだよ。先ずは帰ってゆっくり休まないと。」と告げました。友人はゆっくりと笑顔を見せ、そして眠りに着いたのです。それが、僕が聞いた友人の最後の言葉であり、最後の笑顔となりました。
翌日の退院は決定していましたが、それは回復によるものではなく、最後の時を自宅で過ごしたいという、当人の意思を尊重したに過ぎません。つまり、「在宅」の「看取り」という形です。その日の朝、友人は意識を失った状態で自宅へ運び込まれます。それから、夕方に掛けてゆっくりゆっくりと鼓動を弱め、やがて静かに息を引き取りました。奥さんや親しかった人々は、友人の名を叫び、体を揺り動かして、必死に起こそうとします。なんとしてでも引き留めたいと思う純粋な心が、彼らにそのような行動をさせるのでしょう。僕は彼らが疲れを感じた頃を見計らい、「そろそろ逝かせてあげようよ。」と言いました。医者が死亡時刻を宣告します。余命1年と宣告されてから、たった3ヶ月半後のことでした。
葬儀等の一連の手続きや、来訪する友人の親族や関係者らへの対応など、しばしドタバタの毎日が続きました。諸々の作業に一段落が着き、当時就いていた山岳パトロールの仕事に復帰したのが、8月の初頭です。そして、大変に驚くことになりました。その際に見た、真夏の屋久島の森は、それまでになく強く輝いているように感じられたのです。長年の風雨に耐えて成長した杉の古木も、苔の上で花を咲かせる小さなランも、川辺を歩く虫のカワゲラも、草を食む夏毛の雄ジカも、何もかにもが光を放っていました。血の通わない冷たい花崗岩や枯れた木や枝、半分土と化した落ち葉さえも輝いています。流れる水も浮かぶ雲も空も空気も、あらゆるものが命に繋がっているように感じられました。とにかく、目に映る全てのものが、何らかのエネルギーに満ち溢れているのです。
それまでの僕は、死が生きる道の最後のイベントであり、生は死という到達点へ向かって進むという事実を承知しているつもりでいました。その後の世界へと続く、一つの過程である可能性については否定出来ませんが、いずれにせよ、一つの終焉を迎えるのは事実であり、それが正しい生のあり方という認識です。しかしながら、実際の死と向き合うにあたり、そのような概念は消失していました。死が生の一環であることを受け入れられる状態にはなく、友人の死そのものを遠ざける為に、闇雲かつ必死にあがく自分でしかなかった言えます。それまでに、親しい人物を失った経験はあります。しかし、最後の瞬間まで寄り添うほどに、死というものに相対したことはありませんでした。考えてみると、僕は3カ月半の間、現実の死にあまりにも深く関与した為、心身ともに疲れ切っており、エネルギーに満ちて輝く命とは遠ざかっていたように思えます。そして、そのような状態に陥った後に、僕は森に満ち溢れる命の光を感じました。それはもしかすると、死に対し、真っ向から向き合った直後だからこそ、得ることが出来た経験だったのかも知れません。思うに、全てのものは何かしらの光に包まれ、そして必ずやどこかで繋がっているのでしょう。
そして僕は、まるで生を謳歌するように、この絵を一気に描き上げました。ボールペンのみで描かれた、地味なモノクロームの作品ですが、僕にとっては、間違いなく代表作の1つという認識があります。これは言わば、友人とのコラボレーションだと言えるかも知れません。これが、僕や友人の愛する屋久島の森です。この絵のポストカードは、今でも友人の遺影の横に立て掛けられています。